……
緊張の一瞬。しっかりと、服の上からケースの形を確かめた衛兵は―顔を強張らせるボリスをちらりと見やり、そのまま手を離す。
この男も、異常ありません
振り返り、隊長格に何食わぬ顔で告げる衛兵は、先ほどのボリスの貧乏ゆすりをじっと見つめていた一人であった。
うむ、ならば通ってよし
重々しく頷いた隊長格は、興味を失ったようにボリスから視線を外す。細く長く息を吐き出したボリスは、靴を履き直し、ゆっくりと小門を抜けた。
―次の五人、入れッ!
隊長格の声を遥か後方に聞き流しながら、一本二本奥の裏路地に入り、ボリスはようやく安堵の溜息をつく。
(危なかった……)
その顔は、げっそりとやつれていた。夕闇に包まれた薄暗い、しかしスラムよりは格段に清潔な路地を、死人のような足取りでのろのろと歩く。
やがて、仄かな明かりの洩れる、小さな酒場へと辿り着いた。
……エール
カウンターの席に座り、抑揚のない声で主人に注文をつける。樽から木のジョッキに琥珀色の液体が注がれ、乱暴に目の前に置かれた。
よう兄弟。調子はどうだ
ジョッキに口を付けようとしたところで、一人の痩せた男が慣れ慣れしく、ボリスの隣の席に座って話しかけてくる。
……上々さ
陰気な口調で答えたボリスは、カウンターの下、懐から取り出したケースを隣の男へ差し出した。何食わぬ顔でそれを受け取る男。
そいつぁ何よりだ。どうだ? 上さんの機嫌は?
……女房なら、とっくの昔に逃げ出してるよ
はははは、そういやそうだったな。悪い悪い、忘れてたぜ
意地の悪い笑みを浮かべながら、男は金属製のケースを仕舞い、代わりに小さな革袋をボリスの目の前に置く。
侘びということで、今日はオレの奢りだ。たっぷり呑んでくれよな
それじゃあまたな、と言いつつ男は席を立ち、そのまま酒場を出て行った。
……
のろのろと、緩慢な動きで、ボリスは革袋の中身を確かめる。
鈍い輝きを放つ銅貨が、数十枚。
銀貨一枚には、少し足りない。かさばりはするが、それほど価値はない。そんな枚数。
……これだけか
ぽつりと小さく呟いた。これがお前の命の値段だ。そう告げられたような気がして。
……くそッ
ジョッキをあおり、エールを流し込む。苦い安酒はどうしようもなく不味いが、それでも呑まずにはいられない。銅貨数十枚。普通に働くよりはいい稼ぎだが、それでも借金を返すには遥かに足りなかった。あと数回、あるいは十数回、この仕事を繰り返さなければならない。
……エール
ぼそりと、空になったジョッキを差し出しつつ、ボリスは天井で揺れるランプの薄明りをぎろりと睨みつけた。
先ほど、自分が運んだ金属製のケース。あれの中身が売り捌かれるとき、実際に幾らになるのかは、ボリスには想像もつかない。しかし、末端価格でいえば、銀貨の十枚や二十枚では収まらないはず。
それなのに、自分の手取りは、銀貨一枚にも満たない。
……くそッ!
エールをあおる。悲しかった。虚しかった。先ほどケースを渡した男の名前すら、ボリスは知らないのだ。今日はまだ運が良かったが、一歩間違えれば、ボリスも先ほどの女と同じ末路を辿る。トカゲの尻尾、その末端も末端。自分のあまりの小物さに、吐き気すら催した。世の中不公平だと嘆きつつも、脳裏をよぎるのは楽しかった時代。まだ、自分が職人として、活躍できていた時代。
……あの頃は良かった
ぽつりと。呟くと同時に思い描いたのは、モンタンの顔。
なんで、アイツはああなのに、俺は……!
ぎり、とジョッキを握る手に、力がこもる。
お前も一度、味わってみろってんだ……
この、安酒の味を。
場末の、うらぶれた小さな酒場。
腐った男が吐き出した毒は、薄暗い闇の中に、溶けて消えていった。
トリスタンは、作中では名前が出てきませんが例の売人の男です。
アヒトは書籍版2巻のキャラなので、Web版には登場しておりません。
本当にありがとうございました。
(※ちなみにアヒトは草原の民です。作中世界の草原の民たちはこんな感じです)
ちなみに、作中世界での貨幣単位は、
小銅貨10枚=銅貨1枚
銅貨100枚=小銀貨10枚=銀貨1枚
銀貨100枚=小金貨10枚=金貨1枚
となっております。
19. 仕事
ぴょこぴょこと。
金髪のポニーテールを揺らし、ケイたちの前を歩いていた幼い少女が、くるりと笑顔で振り返った。
こちらがサティナのシンボル、『サン=ディルク時計台』でーす
幼い少女―リリーが示した石造りの時計台を見上げ、ケイとアイリーンは おおー と感嘆の声を上げてみせる。
これは42年まえ、いまの領主さまが生まれたときに、先代さまが記念に建てられたものなんだよ。おもりがおちる力で歯車を回す、『じゅーすい式』って方式で動いてるんだ! 領主さまのまほうの時計を見て、毎日めしつかいたちが時間をあわせてるから、とっても正確なの!
へぇ~そうなんだ
リリーは物知りだなぁ
ケイとアイリーンに口々に褒められて、リリーは えっへん と得意げだ。
モンタンの工房を訪ねた、翌日。
ケイたちはリリーに連れられて、サティナの街を歩き回っていた。
もちろん歩き回るといっても、ただ街を観光しているわけではない。リリーの案内で、モンタンと懇意にしている職人たちの所を訪ねて回っているのだ。ケイの背中には既に、先ほど防具屋で購入した、合金張りの薄い木製の盾が背負われている。矢を弾く程度には頑丈だが、それほど重くはなく、アイリーンにも使い易い優れた一品。モンタンの知り合いということで少し値引きして貰えた。
じゃー次は、コナーおじさんのとこに行くよー
コナーおじさんってのは、なんの職人なんだっけ?
かわー!
アイリーンの問いかけに、リリーが元気よく答える。
昨日は結局夜までモンタンの工房に入り浸り、夕食にまで招かれたケイとアイリーンであったが、ケイがモンタンと意気投合している間に、アイリーンはキスカ・リリー親子とすっかり仲良くなっていた。奥の部屋でお茶をご馳走になり、リリーと手毬や歌などで遊んだ後は、ちゃっかり裏庭を借りて一緒に水浴びまで済ませたらしい。その人懐っこさ、要領の良さには、ケイも恐れ入る。
ふんふんふん~ふんふんっとぅっとぅるとぅーかちゅーしゃー♪
アイリーンから教わったらしい、うろ覚えのロシア民謡を口ずさむリリー。モンタン譲りのくすんだ金色の髪は、昨日までは三つ編みのおさげにしていたが、水浴びのあとにアイリーンの真似をしてポニーテールに変えたそうだ。アイリーンの手を引いてトコトコと歩く姿は、顔のつくりこそ少々違うものの、まるで歳の離れた姉妹のようだ。 リリーはホント可愛いな~ と笑顔のアイリーン。