そう、短く言って。男が席を立ち、酒場を出て行く。
呆気にとられた顔で、その背中を見送ったボリスは、固まったまま。
しかしすぐに、目の前の銅貨が酒代であることを察し。
そして、この『仕事』に携わって以来、初めて男から『名前』を呼ばれたことに気付き、ガタガタと慌ただしく席を立った。
遅いぜ、まさか俺が待たされるとは思ってなかった
酒場の外、壁に寄りかかるようにして、皮肉な笑みを浮かべる男。
す、すまねえ、ちょっとびっくりしちまって、う、動けなかったんだ。すまねえ、ほんとにすまねえ
……ふっ。まあいいさ
しどろもどろに謝るボリスに、鼻で笑った男は、 付いてきな と再び歩き出す。ボリスは黙って、その背中についていった。
…………
沈黙。ただ、カツカツと、靴の踵が石畳を打つ音だけが響く。
―本来、あの酒場は。
サティナの街の暗部、ならず者たちが集まって、互いで互いの声を打ち消し合い、聞かれると少々都合の悪い話をするために設けられた場所だ。
それを。
こうやって、さらに外へ連れ出されるということは。
…………
ボリスは、自分の胸の内に、恐れとも期待とも知れぬ、不思議な高揚感が広がっていくのを感じた。
……俺もさ、
歩きながら、前の男が唐突に口を開く。
昔は、『運び』をやってたんだ。今のお前みたいにな
そこで足を止め、街の片隅、暗い路地の一角で壁にもたれかかる。
だから、大体お前がどんなことを考えてんのかは、分かる。『銀貨一枚は安すぎないか?』『俺の命の値段はそんなものなのか?』……と、まあ、こんなところだろ
……っ
楽しむような、それでいて、どこか試すような口調に、ボリスは言葉を詰まらせた。
そしてその沈黙は―どこまでも雄弁な肯定。
……そう硬くなるなよ。別に責めてるわけじゃねえんだ
にやにやと。男が顔に張り付けた笑みは、相変わらず意地が悪い。しかしすぐにその笑みを引っ込めて、男は鋭い表情で言い放った。
はっきり言うが、ボリス。お前の命の値段は銀貨一枚以下だ
そのあんまりにもあんまりな言い様に、ボリスは言葉を失う。しかしそこで、 ただし、 と男は言葉を付け加えた。
―それには、『今のお前の』、という条件が付く
懐から金属製のケースを取り出し、ひらひらとそれを見せつけるように、振る。
これはな。お前がどう思ってるかは知らないが、マジで頭の中から理性を吹っ飛ばすような、ヤバい代物なんだ。そんじょそこらの組織がチマチマと運んでる、チンケな『粉』とは格が違う。―なんつったって、たったこれだけの量で、金貨一枚に届こうかって値が付くんだからよ
金……ッ!?
がこん、とボリスの顎が落ちた。全く、想像の埒外の高値。庶民ならば十年は食っていける額。金貨一枚、金貨いちまい、きんかいちまい、その言葉が脳髄に沁み渡り、自分がそれを運んでいたという事実に、今更のように背筋が震えた。
だが、お前の手取りは、銀貨一枚以下だ。なんでだか分かるか?
……わ、わからねえ
真っ直ぐに瞳を覗きこまれ、ボリスは熱に侵されたかのようにただ首を振った。
教えてやるよ。それはな、必ずしもお前である必要がなかったからだ。これを運ぶのがな
その言葉を、口の中で反芻する。反芻する間にも、男は言葉を続ける。
ボリス、お前は確かに、命を賭けてる。だがな、その『命を賭ける役』は、必ずしもお前である必要はないんだよ。命を賭ける、そいつぁ大したことだ。しかし覚悟さえあればガキでも出来るような仕事だ、違うか?
それよりももっと重要な仕事がある。例えば、衛兵を買収するのは誰だ? 運ばれたブツを安全に売り捌くのは誰だ? さらに言うなら、そもそも『これ』を生産してるのは? それをサティナまで運ぶのは? 全体の行程を管理するのは? そもそもの資金を提供するのは? ……考え出したらきりがねえ。もしこれらを全部一人でこなせたら、ボリスよ、お前は金貨を独り占めできるぜ
……む、むりだ。そんな……そんなことを、独りでだなんて……
そう、無理だ。だから分担してやるしかない。そしてお前は、その末端、一番どーでもいい仕事をやってたんだよ
そんな……
男の容赦ない言葉に、怒りとも、哀しみとも、虚しさとも知れぬ感情が、込み上げて、胸の中で、ごちゃごちゃになっていく。
途方に暮れたように俯くボリス、それをよそにケースを懐にしまった男は、代わりに平たい金属製の酒瓶―スキットルを取り出し、蓋のコルクを抜いた。
きゅぽんっ、と小気味の良い音。酒瓶の中身を一口、口に含んだ男が、 お前もどうだ? と差し出してくる。
渡されるままに、ボリスも瓶を傾けた。そして中の液体が舌に触れた瞬間、思わず目を見開く。
……美味い
ぽつりと。呟く言葉と共に、芳醇で、鼻の奥にすっと抜ける、甘いアルコールの香り。
久しく口にしていなかった、上等な酒の味。
ボリス。お前は今まで、糞つまらないどーでもいい仕事をやってきた
酒瓶を取り戻し、蓋を閉めた男が、
だが、それも今日で終わりだ
真っ直ぐに、ボリスを見つめる。
―組織は、この街から手を引くことを決定した
えっ!?
男の言葉に、ボリスはがつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。
そっ、それは、ほっ本当に―
しっ、でかい声出すんじゃねえ馬鹿
顔をしかめる男に、慌てて口を押さえるボリス。
……いいか、よく聞け。正直、最近のサティナの警備は厳しすぎるんだ。買収やら何やらでどうにかやり繰りしてるがよ、はっきり言って割に合わねえんだわ、この街
……それは、たしかに、わかるが
―なら、自分はどうなるのだ。
まだ、借金の返済は終わっていない。自分の分け前に多少の不満はあったが、それでもこの仕事がなくなれば困る。
まるで足元の地面ががらがらと崩れ去っていくような、そんな感覚。
というわけでだ、ボリス。お前、うちに来い
しかし、続けざまに投げかけられた言葉に、ボリスの思考は完全に停止した。
……へ? 来いって、それはつまり……街を出ろと? なんで?
理解が追いついた瞬間、頭をよぎったのは、喜びではなくむしろ当惑。なぜ自分が? という、信じきれない、信用しきれない、そんな疑念を伴った黒い感情。
お前に見込みがある……というと、はっきり言ってかなり語弊がある。正直そこまで甘い話でもないんだが、
そう前置きして、男は肩をすくめた。
ボリスお前、気付いてねえのか。今回で10回目なんだよ、お前が仕事をこなすのは
……言われてみれば
今まで散々やらせといて何だが、この仕事は生存率が低い。実はお前以外にも運び人はいたんだが、何人かは捕まってな、