さっ、と親指で首を掻き切る動作。ボリスの顔から血の気が引いた。
まあそういうわけで、運にせよ実力にせよ、お前は栄えある10回目を生き延びたという実績があるわけだ。―これが理由の一つ。次に、そこに至るまで、仕事の秘密を保ち続けた―という信用が一つ。そして最後、これが一番重要なんだが、
にやり、と男は意地の悪い笑みを浮かべ、
『ウチ』のことを知ってる奴を、このまま生(・)か(・)し(・)て(・)放置なんざ出来ないんだわ
その言葉の意味を理解したとき―ボリスの顔は紙のように白くなった。
……提案、というより、命令か
拒否権はあるぜ? 酷く高くつくけどな、割に合わねえ話さ
しかし……俺には、借金が……
踏み倒しちまえ、そんなもん。今更なんでそんな真面目なんだよ
ボリスは黙って、頭の中で考えを巡らせる。
そもそも、ボリスがこの街を離れられなかったのは、持ち家があるという事実と、イマイチな矢作りの腕しかなかったのが原因だ。
借金を踏み倒して逃げようにも、中途半端な職人の腕前では、人脈のない見知らぬ街では生きていくことはできない。
……次の街でも、俺は運び人なのか
いいや。もうちっとまともな働き方をしてもらう。……具体的には、まあ俺の仕事の見習い、手伝い、雑用、そんなとこだな
簡単だろ、と笑う男。意地の悪い、しかし厭らしさはない笑み。
……ほ、本当か
10回も、薄氷を踏む思いで命を賭け続けてきたボリスからすれば、それは、
……信じられねえ、やりたい、俺はやりたいッ
まるで、天国のような話だった。
よし。……とはいえ、まだすぐの話じゃねえ。早くても一週間後くらいだ、それまでに諸々、身の回りの整理はしておきな
お、おう!
興奮に身体を震わせるボリスに、しかし、男は ああそうだ、 と思い出したかのように、
……忘れてたわ。もう一つだけ、簡単な仕事がある
…………
動きを止めて、胡散臭げな表情をするボリス。
いや、そんな顔するなって。『運び』に比べりゃカスみたいな仕事さ
……というと?
実はな。さるお方に納品する予定だった奴隷のガキがよ、この間死んじまったのよ
……奴隷?
薬関連ではなく、唐突に飛び出た『奴隷』という単語に、首を傾げるボリス。
ウチでは奴隷も扱ってんのさ。……もちろん、非合法のやつな。んでまあ、これが結構急な話でよ、納品するのに代わりの奴隷が必要なんだが、
んふぅ、と鼻で溜息をついた男は、そこで表情を曇らせる。この男の、貼り付けたような笑顔以外の表情は初めて見たな、とボリスはそんなとりとめのないことを考えた。
その『さるお方』ってのが、……早い話が、変態でよ。器量良しのメスガキじゃねえと、満足できねえタチなんだわ。器量良しの『女』なら幾らでもいるんだが、ガキは今手元になくてな……というわけで、今度スラムへ人狩りに行こうって話なんだが、お前も来るだろ?
まるで、ピクニックにでも誘うような、気軽な口調。
それは確かに―非合法ではあるが―麻薬の密輸に比べれば、『カスみたいな仕事』であった。
が、しかしその話を、ボリスは途中から、殆ど聞いていなかった。
頭の中に浮かんだのは、それは―
光り輝くような、幸せそうな、とある家族の―
…………
沈黙したままのボリスに、男はにやりと、意地の悪い笑みを、
どうしたボリス、そんな悪い顔して
……その、メスガキってぇのは、
昏い目は、どす黒く汚れ、濁っている。
メスガキってぇのは、スラムで探さなきゃならねえのか?
……薄汚れた物乞いのガキの顔を、イチイチ確認すんのは手間だからな。別にスラムには拘らねえぞ?
その返答に―笑みを一層濃くしたボリスは、 へ、へへ と、引きつったような声を上げた。
―心当たりがある
夜は、更けていく。
20. 誘拐
昼下がり。サティナの街の大通りは、多くの人々で賑わっていた。
馬の手綱を引いて、宿場を探す傭兵。
革の荷物袋を抱えた、身なりの良い商人。
浮浪者と思しき、汚い格好の子供。
黒い貫頭衣に身を包んだ、公益奴隷。
そんな雑踏をすり抜けるようにして、リリーはひとり、軽やかな足取りで塾へ向かう。
ケイたちの案内を務めた、その翌日のこと。
相変わらずアイリーンの真似で、髪型は今日もポニーテールだ。リリーが一歩を踏み出すたびに、頭の後ろで青いリボンが揺れる。
―おーい、リリー。元気かー?
と、その時。背後から聴こえてきたのは、野太い男の声。
思わず足を止めて振り返れば、そこにはぎこちなく笑みを浮かべるボリスがいた。
……おじちゃん
ぱちぱちとゆっくり目を瞬かせて、表情を曇らせるリリー。その声に滲む、微かな警戒と困惑の色。
“ボリスとは、あまりお話しちゃいけないよ”
悲しげなモンタンの顔と、その忠告が頭をよぎる。
よお。……こうやって直接会うのは、随分と久しぶりだな
はにかんだように頬をぽりぽりとかきながら、明後日の方向を見やるボリス。
その言葉通り、こうしてリリーとボリスが顔を合わせるのは、随分と久しぶりのことだった。リリーの記憶が正しければ、最後に口を利いたのはもう一年も前のことになるだろうか。ボリス本人は何度も家へ金を借りに来ているのだが、ここ最近リリーは昼間は塾に通っている。昔に比べるとお互いに、とんと会う機会が無くなってしまったのだ。
……どうしたの。おじちゃん
父親の忠告はあったが、さりとて目の前にいる人を無視するわけにもいかず、ボリスに向き直ったリリーは、上目遣いでスカートの裾をぎゅっと握った。
正直なところ。
リリーは今でも、ボリスのことを嫌ってはいない。
どうしても嫌いになれない、というべきだろうか。勿論リリーも、近頃のボリスは金の無心に来るばかりで、父親を困らせていることは知っている。
それでもリリーの心の奥底には。
ありし日の、『優しいボリスのおじちゃん』のイメージが、いまだに強く焼き付いて離れないのだ。
幼い頃、モンタンやキスカが共に仕事に忙殺され、リリーの面倒を見る余裕がなかったとき。
二人に代わって世話を焼いてくれたのが、他でもないボリスであった。
今よりも明るく、まだ真面目だった頃のボリス。幼いリリーの我がままに付きあって、よくお馬さんごっこやおままごとで遊んでくれた。近所のいじめっ子に泣かされたときは、自分のことのように怒ってくれたこともあった。ボリスの肩車に乗せられて、散歩した川沿いの遊歩道。夕日に照らされた道で、モンタンたちには内緒で買ってくれた蜂蜜飴の味。