工房に着く。
日が沈みかけ、暗くなりつつあるというのに、モンタンの家には明かりも付いておらず、どこかひっそりとした雰囲気だった。
失礼する、俺だ、ケイだ
こんこん、と表の扉をノックするも、暗い工房の中から返事はない。
……留守っぽい?
分からん
首を捻りつつドアノブに手を掛けると、鍵はかかっていなかった。
……モンタンー? いるかー?
遠慮がちに、ドアを開けて工房の中に入る。すると奥の部屋の方でガタガタッと音が響き、モンタンがふらふらと姿を現した。
ケイさん。すいません気付きませんで……
……お二人さん共、いらっしゃい……
モンタンに続いて、キスカも奥から顔を出す。二人とも、顔色が優れない。どこかやつれたような、憔悴したような、そんな表情だった。
ああ……すまない、何かお取り込み中だっただろうか
二人の様子からただならぬ雰囲気を感じ取り、たじろぎながらもケイが尋ねると、
いえ! そんな……そんなことは、無いです。お気になさらず
強い語調で、モンタンが否定する。
……して、ご用件は?
有無を言わさぬ口調、というべきか、それ以上の追及を許さぬ確固たる態度で、極めて事務的にモンタンは言葉を続けた。
うむ……いや、言い辛いんだが、実は、昨日帰ってからよく考えた結果な……
腰から大型の矢筒を取り外しながら、ケイが要件を切り出すにつれ、モンタンの表情が険しくなっていく。何とも言えない気まずさを感じながら、ケイは話を進めていた。
あの、キスカ
そんなケイをよそに、さくらんぼの入った紙袋を手に、アイリーンがキスカに話しかける。
ええアイリーン。どうしたの
これ。さくらんぼなんだけど
顔色の悪いキスカを気遣うように、そっと袋を差し出した。ぼんやりと夢遊病者のような動きでそれを受け取るキスカ。
ちょうど、美味しそうなのが、露天商で売ってたんだ。みんなで食べるといいと思って……ほら、たしかリリーの好物だったよな?
手の中の袋を見つめていたキスカが、その言葉に、はっと顔を上げる。
……そういえば、リリーは、いないのか?
ふと思いついたように。アイリーンのそれは、外の暗さを鑑みての、何気ない質問だった。
…………
しかし、顔面を蒼白にして唇をわななかせたキスカは、腰が抜けたようにへなへなと、その場に座り込んでしまう。
うっ……、ぐっ……
え? えっ?
紙袋を胸に抱え、ぽろぽろと瞳から涙をこぼし始めたキスカに、ぎょっとして硬直するアイリーン。
キスカッ
妻が泣き出してしまったことに気付き、気遣うようにモンタンが駆け寄る。モンタンに背中を撫でられ、キスカは紙袋を抱えたまま、おいおいと声を上げて泣き始めた。
……何か、あったのか
…………
恐れ慄くようなアイリーンの問いかけに、しかし、モンタンは黙して俯いたまま、何も答えない。
リッ、リリーが、リリーが……、
泣きじゃくりながらキスカ、
……リリーが、拐われたんです……
アイリーンがはっと息を呑み、ケイは表情を険しくした。白状した妻に、モンタンは額を押さえて頭を振る。
どういうことだ
…………
黙って立ち上がったモンタンが、奥の部屋に消えた。がさがさ、と何かを探る音、ほどなくその手に二通の封筒を持って、戻ってくる。
……いつもなら、リリーが帰ってくる時間のことでした。ドアがノックされたので、表に出てみると、誰もおらずにこの手紙が残されていました
そう言って差し出す、一通の封筒。アイリーンが受け取り、ケイが後ろから覗き込む。薄暗い工房の中、手紙は非常に読みづらいが、しかしケイの瞳はそれをものともせずに文面を克明に読み取った。
殴り書いたような、わざと字体を崩したような、汚い字。そこには、『娘の身柄を預かった』『このことは衛兵には知らせるな』『身代金として金貨一枚』などいった脅迫文が並べられていた。
金貨一枚だと……?
その、あまりに高額な身代金に唖然とするケイ、
衛兵には、衛兵にはもう知らせたのか!?
焦燥に駆られたような、そんな表情でモンタンに突っかかるアイリーン。
……知らせ、ようとしました。しかし……
苦々しい顔で、モンタンは説明する。
勿論、この手紙を受けて大いに動揺したモンタンとキスカは、たまたま家の前を通りがかった警邏中の一人の衛兵に、やはりこの件を相談しようとしたらしい。
しかし、衛兵に声を掛けようと扉を開けた瞬間、玄関前に置かれていた二通目の封筒に気付いたのだそうだ。
それが、これです
手ずから二通目を開け、その文面を見せてくる。『衛兵に言おうとしたな』『次は無い』『次にしようとすれば、娘の命は無いものと思え』などと書いてあった。
それと……これが……
震える手で封筒から取り出したのは、一房の、モンタンのそれにそっくりな、茶色がかった金髪。
―リリーの髪の毛。
監視、されてるんです。身動きがとれません。仮に私が衛兵に接触すれば、彼らにはそれが分かるんです……
ガタガタと、凍えたようにその身を震わせるモンタン。
その手紙にある通り、誘拐犯は、明日の未明にスラムの入り口あたりに、身代金を持ってこいと要求しています。這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で駆けずり回って、出来る限り資金は集めましたが、それでも金貨一枚には遠く及びません……
ふっと、顔を上げたモンタンの、その瞳は虚無にも似た絶望の色に染まっていた。
ケイさん。後生です
力なく。膝をついたモンタンが、
―お金を。お金を貸して下さい……っ!
ケイの足元に、すがりつくようにして、
ほんの少し。ほんの少しでもいいんです。金貨一枚は無理でも、少しでも多く身代金を用意できれば、リリーは返してもらえると思うんです。だから、だからっ!
涙ながらに、訴える。
お願いです、お金を貸して下さい……っ
…………
ケイは、閉口した。
―返品どころの、騒ぎではなかった。
薄暗い工房の中、モンタンとキスカがすすり泣く声だけが響く。
……すまない。今、手持ちがこれだけしかないんだ
懐を探ったケイは、銀貨を五枚取り出して、モンタンの手に握らせた。
はっ、と目を見開いたモンタンは、
こ、こんなに! ありがとう、ございます! ありがとうございます!!
顔をくしゃくしゃにして、鼻水まで垂らしながら、何度もケイに頭を下げた。
―本当は。
懐に、もっと銀貨はあるのだが。
(これは……多分、ダメだな)
誘拐された子供が、そのまま確実に生かされていると―特に、この世界においてそう思えるほど、ケイは楽観主義者ではなかった。そして仮に生きていたにせよ、身代金を払ったところで、無事に帰ってくる確証もないのだ。