開かない。予想通りビクともしない。十中八九、このスリットは鍵穴だろう。NINJAの嗜みとして、簡単な構造の錠前ならばアイリーンでも開錠できたのだが、手持ちの道具でこの金属製の蓋をどうにかするのは無理そうだった。
無言で立ち上がったアイリーンは、床に倒れ伏した優男を軽く蹴り飛ばして、未だ意識がないことを確かめてから持ち物を探り始める。酸っぱい吐瀉物の臭いに辟易としながらも、上着やズボンのポケットを手当たり次第にひっくり返した。
…………
しかし、この鍵穴に対応するような代物は、何も見つからない。ポケットから金属製の鍵は出てきたものの、この鍵穴には小さすぎる。仕方がないので、部屋の棚なども粗方漁ってみたが、結局めぼしいものは見当たらなかった。当の優男から鍵の在り処を聞き出そうにも、マフラーをはぎ取ってみると完全に白目を剥いて泡を吹いており、頬をはたこうが鼻をつまもうが一向に目を覚ます気配がない。
(……どうしよっか)
床に胡坐をかいて、膝の上に頬杖を突く。しばしの思考の停滞。この『蓋』に対して 追跡 を使い、鍵の位置を探り出すという手もあったが、それをすると手持ちの触媒をほとんど使い切ってしまう。かといってこのまま、手当たり次第に探すのも時間の無駄に思われた。
どうするか。
『ガッハハハハ……!』
『あーはっはっはっ!』
そうしている間にも、階下から響いてくる、ごろつきどもの笑い声。
……
じっとりと、目を細めたアイリーンは、やおら立ち上がり。
背中の鞘から、しゃらりとサーベルを抜き放った。
―同じ魔術を使うなら。
まだ、こちらの方がよい、と。
(ま、結局こうなるか……)
胸元から触媒の水晶の欠片を取り出しながら、アイリーンは渋い顔でひとり肩をすくめる。階下、ランプの炎に揺れる男たちの影を見やった。
刃の具合を確かめるように、ひゅんひゅんとサーベルを回す。
―問題ない。ビッ、と空を裂いて振り下ろした一刀は、ぶれることなく。
かすかな殺気を余韻に残し、ぴたりと止まる。
……待っててな、リリー。すぐに助けるから
小さく、呟き。
アイリーンは一切の躊躇いなく、
そのまま階下へ、身を躍らせた。
†††
日が暮れてから、どれほどの時間が経ったか。
そんなことを気にする奴は、ここにはいない。一階で酒を酌み交わすごろつきたちは、夜はまだまだこれからだ、と言わんばかりに大いに盛り上がっていた。
―そんで、ソイツを裸にひん剥いて、表に逆さ吊りにしてやったってワケよぉ!
ヒーッヒッヒッヒ、ひでぇ話だ!
ガッハハハハハ! 完全にとばっちりじゃねえか!!
大して面白くもない酔っ払いの話に、大して可笑しくもないのに大笑いする酔っ払い。酒さえ入っていれば猫が歩いても面白い。飲んでは笑い、笑っては飲む。最初、この場に呼ばれたときは緊張気味だったボリスも、今ではすっかり上機嫌でエールをがぶ飲みする始末だ。
渦巻くような男たちの熱気に、むっとするアルコールの匂い。
そこへ酒飲み特有の高すぎるテンションが入り混じり、部屋はまさしく混沌の様相を呈していた。
しかし、そんな乱痴気騒ぎに、突如として姿を現す、黒づくめの闖入者。
……あん?
最初にそれに気付いたのは、階段の真向かいに座っていた一人だった。 酒は充分だが女っ気が足りねえ と、そう考えていた矢先のこと。ジョッキに新たに継ぎ足したエールを、ぐいと喉に流し込もうとしたまさにその瞬間、階段から姿を現した黒装束の美少女に目を奪われる。
しばし、呆けたように動きを止める男。傾けたジョッキから、だばだばとエールがこぼれおちる。
―へへっ
ああ、自分は酔っ払いすぎて、妙なものが見えているのだと。そう判断した男は、にへらとだらしない笑みを浮かべて、改めてぐいぐいと酒をあおり出した。
逆に面食らったのはアイリーンだ。第一発見者が騒ぎもせず、へらへら笑いながら再び呑み始めるのは予想外だった。しかしすぐに気を取り直して、左手に握っていた水晶の欠片を足元の影に叩きつける。
Kerstin!
精霊を喚(よ)ぶ声に、何事かと驚いたごろつきたちが、一斉にアイリーンの方を見やった。
階段下に佇む、黒装束の少女。
その背後、薄闇の向こう。
ごろつきたちは、穏やかな微笑を浮かべる、貴婦人の姿を幻視した。
呆気にとられる男たちをよそに、アイリーンは素早く左手で印を切る。
Kage, Matoi, Otsu.
視界、男たちの姿を指でなぞった。
Vi kovras(覆い隠せ)!
アイリーンの足元。
ヴン、と影が震える。
それに共鳴するように。
男たちの影。
さざめき、うごめき。
弾け飛ぶ。
漆黒の濁流。
それは無音。
だが轟音を錯覚させるほど。
爆発的に。
男たちの全身を、包み込んだ。
うわあああぁぁッ!?
何だコリャァああ!!
ヒイイイィィッッ!?
一瞬で、その場は大混乱に陥る。ごろつきたちからすれば、突如として足元から湧き出た黒い影(バケモノ)に丸飲みにされたのだ。
驚きのあまり椅子ごと倒れる者、影を振り払おうと暴れる者、混乱と恐れで身動きすら取れない者―男たちの反応は様々であったが、実際のところ、ケルスティンの『影』に直接的な害はない。混乱の少ない者から順に、視界が奪われたことを除いては、特に影響がないことに気付くだろう。
だが、それを許すアイリーンではない。
部屋の中。
一息に、踏み込む。
一人目。椅子から転げ落ち、床に這いつくばっている男。程よく足元にあった頭をサッカーボールのように蹴り飛ばす。ゴン、と鈍い音、一撃で昏倒。
二人目。椅子ごと倒れて、後頭部を打ったのか、頭を抱えて呻く男。太腿に刃を突き刺し、サックリと足を封じる。
三人目。影を振り払おうと躍起になって暴れる男。得物を振るって右腕を切り裂き、傷の痛みに動きを止めたところで、その頭部に苛烈な殴打。サーベルのナックルガードと柄頭でタコ殴りにする。
四人目。身がすくんで動けないのか、椅子に座りっぱなしの男。流れるような回し蹴りを頭に叩き込み、壁際まで吹き飛ばす。
五人目。そろそろ術の効力が切れかけているのか、まとわりつく影が薄れている男。這いずるように出入り口まで辿り着いていたので、動けないようふくらはぎを撫で斬りにする。
六人目―と、テーブルを囲むごろつきたちを、反時計回りに制圧してきたアイリーンであったが、ここで気付く。床にへたり込み、顔から影を振り払おうとしているのは、他でもない、
テメェ、ボリスッ!!
視界を潰されたまま、いきなり誰かに名を呼ばれ、びくりと身体を震わせるボリス。アイリーンはその胸倉を引っ掴んで、引きずり起こすように無理やり立たせた。