ヒッ、だっ、誰だッ……何だッ!?
怯えながらも、胸倉を掴む手を引き剥がそうと抵抗するボリスであったが、サーベルを床に突き立てたアイリーンは、お構いなしにその顔面を張り倒す。
パァン! と鋭い音が響き、脳天を揺さぶられたボリスは、ふらりと壁に手をついた。幸か不幸か、その一撃で顔面の影が振り払われ、一瞬白目を剥いたボリスはしかし、すぐに視界を回復させる。
が、その瞬間、 ヒッ と息を詰まらせた。
……今のが、リリーの分だ
文字通り、目を白黒させるボリスが見たのは、―背筋の凍るような、冷たい表情。しかし青い瞳には、めらめらと怒りの炎が燃えるようで、
ぶぅんと、
唸る左のアッパーカットが、もじゃひげの顎に炸裂した。
がッ!?
のけぞる。まぶたの裏で星が散る。切れた口の中、広がる血の匂い。
これはモンタンの分ッ
叫んだアイリーンは、間髪入れずに右拳を振りかぶり、
ごぶぅ……ッ!?
抉り込むようなボディブロー。ごぷりと腹の酒が逆流する、
これがキスカの分ッ!
腹を押さえてふらふらと後ずさるボリスを前に、すっ、と右脚を引く。
構える。
そしてこれが、
ぐるんっ、と身体を回転させ、打ち放つ。
―オレの分だッ!!!
全力。
必殺の回し蹴り。
ボリスの鳩尾に、突き刺さった。
―ッ!!
もはや、悲鳴すら出ない。まるで冗談のように吹き飛ばされたボリスは、そのまま石壁にゴッ、ビタアァァンと激突する。
ぁ、ッげ……
ずるずると。壁にもたれかかって尻もちをついたボリスは、目を裏返らせて酒を吐き出しつつ、それでも何かを求めるように手を彷徨わせ、
……ォぼ
そのまま何も掴むことはなく力尽き、自らの吐瀉物の上にどちゃりと倒れ伏した。
……ふン
目を細め、ただ鼻を鳴らすアイリーン。
―あぁッ、クソッ、チクショウッ、何だってんだよコレは!!
その時、最後に残されていた一人が、ようやく顔にまとわりついていた影を振り払うことに成功する。
……あ?
しかし、視界が回復すると同時に、動きを止めた。見回せば、無事なのは自分だけ。周囲には、まさしく死屍累々といった様子で倒れ伏す仲間たち。
さて、ナイスなタイミングだな
目の前には、床からサーベルを引き抜いて、ぽんぽんと刃の背で肩を叩く、正体不明の黒装束の美少女。
その笑みは、少女の美貌には不釣り合いなまでに獰猛で。
思わず、尻もちをついたまま後ずさったごろつきは、無意識のうちに、媚びるような愛想笑いを浮かべていた。
すっ、と喉元に、サーベルの刃が突きつけられる。
―テメェに、訊きたいことがある
男にできたのは、ただ阿呆のようにコクコクと頷くことだけであった。
†††
真っ暗な、狭い空間。
手足は縛られ、口には猿ぐつわをかまされ。
体操座りの格好のまま、身じろぎもできない。
(なんで……こんなことに、なったんだろ)
虚ろな瞳で、ぼんやりと。
リリーは、闇の中、視線を彷徨わせる。
―気が付けば、ここにいた。
帰り道のこと。今日、塾はいつも通りに終わったのだが、帰宅自体は遅くなった。コーンウェル商会の御曹司であり、塾では机を並べて勉強する仲の、『ユーリ』という男の子がリリーを引き止めたのだ。
リリーとしては早く帰りたかったのだが、父親の大得意様であるコーンウェル商会、その跡継ぎの好意を無碍にするわけにもいかない。美味しいお茶を頂きつつ、大して興味もない詩や文学の話を聞き流したが、暇(いとま)を告げて屋敷を出る頃には、すっかり遅くなってしまった。
リリーの身を心配して、ユーリが護衛と共に家まで送ることを提案したが、早く帰りたかったのと、独りでも大丈夫だと思ったのと、御曹司に送迎をさせるなどとんでもないという理由から、断っていた。
それが、間違いだった。
あの時、その言葉に素直に従っていれば、と。今となっては、そう思う。
リリーがいつものように、大通りを歩いていたときのことだった。一人の見知らぬ少年が、声をかけてきたのだ。
身なりは悪くないが、何だか目つきが悪いという印象の、リリーよりも少し年上の男の子だった。曰く、 ボリスのおじちゃんが、仕事の祝いに家まで料理を持っていこうとしているが、多過ぎて持てないのでリリーに手伝って欲しい とのこと。
正直なところ、変な話だとは思った。ボリスの家が旧市街で、夜歩くには危ないことも知っていた。
しかし、朝の件もあり、 おじちゃんも一人じゃお金を返し辛いし、理由をこじつけて一緒に行って欲しいのかな などと深読みしたリリーは、その誘いにまんまと乗ってしまったのだ。
ボリスの家まで送ってくれるという男の子が、ポケットから 食べる? と蜂蜜飴を取り出したのも、大きかったかもしれない。それを頬張りながら、男の子に連れられて、リリーは意気揚々と旧市街に踏み入っていった。
そして―そこからの記憶が、曖昧なのだ。うらびれた路地を歩いている途中で、口の中で蜂蜜飴が砕け、変な味の粉末が出てきたのまでは憶えている。その後は、ぐにゃぐにゃと視界が回り、まるで夢の中にいるようで、気が付けばここに閉じ込められていた。
(わたし……どうなっちゃうんだろ……)
死んだような無表情で、何度も自問を繰り返す。自分が誘拐されて、監禁されているらしいということは、薄々察していた。泣いて、叫んで、もがいて―既に、体力も気力も使い果たしている。
(怖いおじさんたちに連れられて……むりやり働かされるのかな……)
真っ先に連想したのは、“奴隷”や”身売り”といった言葉だった。鞭を持った『怖いおじさん』に、鉱山のような場所で、重労働を強いられるイメージ。
それに匹敵する―あるいは、それよりも恐ろしいことを想像するには、リリーはまだ幼すぎた。
しかし、そうであったとしても、怖くてたまらないことに変わりはない。猿ぐつわを噛みしめ、 えぐっ と小さくしゃくりあげる。もはや泣き過ぎて、涙は枯れてしまったのだろうか、真っ赤になった瞳からは何もこぼれ落ちなかった。
(パパ……ママ……助けてよぅ)
もうわがままも言わないし、もっとお勉強も頑張るし、言うこともよく聞くから、と。
(会いたいよぅ、パパ、ママぁ……)
暗闇の中、顔をくちゃくちゃにして。
ただ祈り。声も出さずに、泣く。
―と。
頭上で、ガキンッ! という大きな音が鳴った。
飛び上がらんばかりに驚いて、上を向く。続いて、ギリギリギリ……と金属同士が擦れる音。突然の状況の変化に、目を見開いたリリーは、処刑の時が近づいた死刑囚のようにガタガタと震え始める。