おねえちゃん……行っちゃうの
うん、ごめんな。どうしても、ウルヴァーンに行かないといけないんだ
ケイの隣では、アイリーンとリリーが、別れの挨拶をしている。
…………
申し訳なさそうなアイリーンに、リリーはただ俯いた。 行かないで とも言わない。ダダをこねて泣きもしない。ただ、無表情で、黙り込んだまま―。これはこれで、来るものがある。
そうだ。リリーには、これを上げよう
スズカからひらりと飛び降りて、アイリーンはリリーの目線までしゃがみこんだ。
……これは?
お守りさ
アイリーンがリリーの手に握らせたのは、チェーンに吊り下げられた紅水晶(ローズクォーツ)の結晶だった。
昨日の夜、作っておいたんだ。魔法をかけておいたから、日が沈んだ後なら、一度だけオレを呼ぶことができる。だからもし、また何か危ない目にあったとしても、それで呼んでくれれば、すぐに助けに来られるよ
尤も、『呼ぶ』といっても、瞬間移動ができるわけではない。ただ局所的な 顕現 を利用して、ごくごく短い間、会話ができるだけの代物だ。他にもお守りを起点に、遠距離から影を送り込むくらいのことは出来るかも知れないが、所詮は子供だましの域を出ない。
しかし、その言葉は、まさしく魔法のように劇的に作用した。瞳に輝きを取り戻したリリーは、大切そうに、ぎゅっとお守りを握りしめる。
……おねえちゃん、ありがとう
精一杯、健気な笑みを浮かべて礼を言うリリーであったが、その瞳にみるみる涙が溜まっていき、すぐに表情が崩壊した。
おねえちゃあぁぁん……
……よしよし
胸に顔をうずめて静かにすすり泣くリリーの頭を、そっとアイリーンが撫でつける。ケイはそれを、馬上から黙って見守っていた。
……ケイさん
と、リリーたちを邪魔しないように、ケイの横にモンタンとキスカがやってくる。
やあ、どうも
流石に馬上のままでは失礼なので下馬しようとするが、モンタンがそれを押しとどめた。
ケイさん。今回は、本当にありがとうございました
……俺は何もしていない。礼なら、アイリーンの方に頼む
頭を下げるモンタンたちに、ケイは困ったように微笑んだ。苦笑い、と形容するには、少々苦すぎる味。
アイリーンさんには、もう何度もお礼を言いましたし。いえ、というか勿論、回数の問題ではないんですが……
自分の言葉を否定するように、慌てて手を振るモンタンをよそに、キスカが一抱えほどあるバスケットを差し出した。
サンドイッチです。こんなもので申し訳ないですけど、今日のお昼にでも、アイリーンさんとどうぞ
おお、それは有難い。……バスケットごと頂いても?
ええ、もちろんです
ありがとう
バスケットをサスケの鞍に括りつけつつ、笑顔で答える。その間に、気を取り直したモンタンが中型の矢筒を取り出した。
すいません、何だか捻りがなくて申し訳ないんですが……何本か追加で、長矢を仕上げておきました。是非使ってください
おお、これは……。矢は、既に沢山あるんだが……いいのか?
もちろんですとも
深々と頷くモンタン。実際のところ、矢は本当に沢山ある。モンタンから買い占めたものがその殆どだが、問題はその体積だ。ケイの腰、サスケの鞍の両側、サスケの背中、と合計で四つも矢筒がある。しかもそのうち三つがかなり大型のものだ。
……ありがたく、頂戴しよう。ただ、矢筒は充分に空きがあるから、矢だけ頂いてもよろしいか
ええ、どうぞどうぞ
矢だけを抜き取って、腰の矢筒に仕舞う。心なしか、他のものよりもさらに丁寧に仕上げられている気がした。
よーし。それじゃあそろそろ出発するぞー!
隊商の先頭から、声が上がる。商人たちが荷馬車に乗り込み、護衛の戦士たちは馬上で背筋を伸ばす。
出立の、時が来た。
それでは、そろそろ
ええ。……お元気で
本当に、ありがとうございました
ケイに向かって頭を下げたモンタンとキスカは、最後の機会とばかりにアイリーンにも別れの挨拶をしに行った。
モンタンたちと、名残惜しそうに会話するアイリーン。それから視線を剥がし、ケイはぼんやりと、晴れ渡った空を見上げる。
がらがら、と車輪の音を立てて、隊商の荷馬車がゆっくりと進み始めた。
ぽん、とサスケの脇腹を蹴り、ケイも前進する。
おねーちゃーん! またねー!!
おう、元気でなー! 絶対また来るからなー!!
ケイの隣、アイリーンが背後のリリーたちに向かって大きく手を振っている。
この世界に転移してから、おおよそ十日。
なぜ、自分たちは、この世界にやってきたのか。
その謎を解き明かすために、ケイとアイリーンは旅立つ。
目指すは、北。リレイル地方の中心部。
―要塞都市、“ウルヴァーン”だ。
本当にありがとうございます……!!
幕間. Lily
…………
段々と小さくなる隊商の影を、幼い少女は、物悲しげにじっと見つめていた。
……リリー
傍に寄り添う父親が、そっとその手を握る。
さあ、そろそろおうちに帰ろう
……うん
今日のお昼はビーフシチューにしましょう。ね?
反対側の手を母親に引かれ、少女はゆっくりと歩き出す。
時折振り返って背後を見やるも、雑踏の中で、遥か彼方の隊商が見えるはずもなく。
やはり浮かない顔で、少女は小さく溜息をつくのであった。
…………
両親は、そんな少女に、心配げな様子で顔を見合わせる。
……リリー。何か欲しいものがあったら、遠慮なく言うんだよ。パパが何でも買ってあげるからね
大通りの商店街に差し掛かったあたりで、何とか娘を慰めようと、父親が努めて明るく話しかけた。
欲しいもの、と言われて、少女はふと思い出す。
事件に巻き込まれる直前のこと。身なりはいいが目つきの悪い、少し年上の男の子から貰った、琥珀色の甘いモノ―
……ねえ、パパ
少女は、父親の服の袖をくいくいと引っ張った。
ん? なんだい?
あのね、わたし―
狂おしいまでに、あの味を思い出す。
―わたし、蜂蜜飴たべたい
幕間. 根城
―話は、数日前まで遡る。
リレイル地方南部。
辺境の村ラネザよりさらに南、凶暴な獣たちの徘徊する深い森の奥。
村の住人たちが 深部(アビス) と呼び、決して足を踏み入れることのない、危険な領域に。
ひっそりと、『それ』は佇んでいる。